カテゴリー: レストランず

江戸今昔物語(Tokyo Now and Then)

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海を照らす白き輝き、真珠王ミキモトのいま

Then(1907)

Now(2023)

今日は、銀座4丁目で美しく佇むMIKIMOTOについてです。歩行者天国で通り過ぎるたび、品のある雰囲気を外まで感じます。真珠は、元来、和珠とも呼ばれるように、日本が世界に誇る宝飾品です。 創業者は、御木本幸吉氏。「世界中の女性を真珠で飾りたい」という夢を掲げ、膨大な苦労の末、1893年に世界で初めて真珠の養殖に成功します。かの発明王エジソンは、後に御木本氏に対し、「私の研究所でできなかったものが二つある。一つはダイアモンド、いま一つは真珠です。あなたが動物学上からは不可能とされていた真珠を発明完成されたことは、世界の驚異です」と述べたそうです。

「世界中の女性を真珠で飾りたい」と言えば、北のモナリザとも称される、『真珠の耳飾りの少女』(Girl with a Pearl Earring, Johannes Vermeer)も思い出されます。真珠を付けた女性は、柔らかく包まれるような美しさを纏っているように感じます(個人の感想です)。

真珠の養殖に成功した御木本氏は、その6年後、1899年(明治32年)、東京府東京市京橋区弥左衛門町に御木本真珠店を開設。この弥左衛門町と、そこに祀られる宝童稲荷神社は、商売繁盛の地としてとても有名で、ミキモトの他、電通(当時、日本広告株式会社)、味の素もこの地から始まっています。今後のブログで取り上げていきたいと思います。1902年に、一時、元数寄屋町(現在の晴海通り側に面した土地、服部金次郎氏所有の倉庫があった場所の隣)に移転。その後、順調に事業展開し、1904年10月9日、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙が、一頁にわたって御木本真珠養殖場の状況を報道している記事が残っています。

↑ジャパンアーカイブスより

1906年12月、現在までその拠点を構える、銀座4丁目に新築移転。冒頭の写真は、1907年頃の写真と言われています。銀座の中央通りに面した白い石造りの洋館は、「真珠色の店」と称され、その斬新さでひときわ注目を浴びたそうです。

時に困難もあり、世の中にモボ・モガが現れた1920年代、徐々に海外への出品を伸ばしていた矢先、ロンドンとパリにおいて現地の宝石商より、御木本の養殖真円真珠は模造品だと喧伝され、1921年、ロンドンの新聞に掲載されました。パリでも養殖真珠に対して疑いの目が向けられ民事裁判となりましたが、ミキモトはこれに勝訴。この「パリ真珠裁判」がきっかけともなり、養殖真珠とMIKIMOTOの世界での認知が加速、1924年には宮内省御用達の宝飾ブランドとなります。

↑真珠王の記念碑

そんな歴史あるミキモト、お隣さんは、株式会社山野楽器(YAMANO MUSIC CO., LTD.)。なんと、東京大空襲も関東大震災も遡り、100年以上この並びなのです。1922年の並びがこちら。

↑「銀座 銀座通り案内」(大正11年9月11日発行)より。⑩⑪は資料上の番号。

ミキモトのHPにも当時の写真があります。この写真だと、ミキモトの右奥には、三河屋食料品店が見えますね。

三河屋食料品店は、現在では、レストラン「銀座 みかわや」として、現在の銀座三越のあづま通りに面する場所で今でも、クラシックなレストランとして営業されています。元々は、1887年(明治20年)9月に、徳川幕府に仕えた三河出身の保坂一族の末裔。保坂芳次郎氏が、現在の「和光」のとなりに開業。その後、上記の通り、ミキモトの隣に移転、震災や終戦を経て、現在の立地になったようです。 「銀座 みかわや」も、是非こんどレポートさせて頂きたいと思います。

↑みかわやHPより

今回は、みかわやさんは諦めまして、銀座4丁目の小路でこっそりと営まれる「親子丼専門店 ○勝」に訪れました。

↑小路地に佇む隠れ家的お店
↑黄身が濃くて味全体がまろやか。

https://tabelog.com/tokyo/A1301/A130101/13208351/

ほっぺの落ちるような優しい玉子と、とりにくの香ばしさ、山椒の切れ味がすっきりとしていてとても美味しかったです。

それではまた次のお散歩で!

江戸今昔物語(Tokyo Now and Then)

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東京の玄関百貨店 大丸

先日、両親を連れてブラッスリーポールボキューズ大丸にやってきました。

外堀通りと呼ばれる東京駅八重洲側の通りに面した大丸は、1954年(昭和29年)10月、東京駅八重洲口の駅ビルに東京店として開店。1910年(明治43年)の江戸店閉鎖以来44年ぶりの東京進出となりました。営業初日には20万人が来店、売上も予想以上の華々しいスタートを切ったそうです。東京店開店をバネに飛躍的な発展を遂げた大丸は、1960年(昭和35年)下期には売上高日本一を達成。以来8年半に亘って連続して王座についたとのこと。今日でも東京駅の玄関として日本を代表する百貨店として知られています。

Then(1885)

↑ジャパンアーカイブスより

Then(1886)

↑郵政博物館より「日本橋区大伝馬町参町目大丸屋呉服店繁栄図」(井上探景)

Then(1954)

↑開店当時の大丸東京店(大丸松阪屋ホームページより)

Now(2023)

時は遡り、外堀通りという地名に注目しますが、時は寛永13年(1636年)、その名の通り、ここには外堀がありました。江戸城の外郭を囲む総延長14~15kmに及ぶ長大な堀でしたが、明治以降にこの外堀の大半は埋められ、現在では外堀通りとして名前に残されています。

東京にいても、外堀と言ってピンと来ないでしょうが、江戸時代には巨大な城郭が聳えていました。関東大震災、第二次世界大戦の戦火は、当時の貴重な木造建築を朽ち果たしてしまいましたが、目を凝らせば、そこには確かに城郭を守っていた石垣が残存しています。中央線ユーザーであれば、市ヶ谷-飯田橋間沿いの水溜まりと巨大な石垣を見たことがあるのではないでしょうか。あれこそがまさに外堀の一角です。

東京駅でもほんの僅かながら、当時の石垣に触れることが出来ます。

上は、丸の内トラストシティ付近。外側の石積みと一線を画すような重厚な八つの石垣は、鍛冶橋門(現在の東京駅八重洲南口付近)周辺で発見された堀石垣を使用し、ほぼ当時の形で積み直したもの。

大丸東京の位置は、嘗て御堀(外堀)の内側にあったということになります。町人地が多かった八重洲側と武家地の間の御堀を結ぶのは、呉服橋。まさに呉服橋交差点の位置に架かる橋です。今では、川も橋も、もはや呉服屋さんも見当たりありませんが、当時、呉服橋交差点から日本橋交差点にかけての一帯は呉服町と呼ばれておりました。幕府の呉服師 後藤縫殿助(ぬいのすけ)の邸もこの辺りです。

↑1868年ごろに浮世絵師 英斎により描かれた「東都呉服橋光景」(東京大学史料編纂所所蔵)。大判錦絵3枚続の内の一枚。

↑現在の呉服橋周辺。前後に伸びるのが外堀通り。永代通りの伸びる方向に橋が架かっていたことになる。

橋を渡って、堀の内に入ると、正面が北町奉行所になります。私が参照している古地図ですと、江戸後期(内、嘉永2年(1849年)- 安政3年(1856年))、井戸対馬守覚弘の治めたことになっております。有名なのは、北町奉行として有名なのは、時代劇『遠山の金さん』のモデルとしても知られる、4代前の遠山左衛門尉景元氏かもしれませんね。

場所はちょうど現在の丸の内トラストタワーのあたりです。跡地として石碑が残っています。井戸覚弘(いどさとひろ)は元々、長崎奉行として、長崎にて外交を担当していましたが、後に幕府三大改革の一つ「安政の改革」を推し進めた、老中阿部正弘の推挙により江戸北町奉行(領内都市部の行政・司法を担当する役職)に抜擢されたとされています。また、嘉永7年(1854年)2月ペリーの再来(黒船来航)に際しては、全権大使 林復斎らと共に米国使節応接掛(4人)を命ぜられ、交渉に従事し日米和親条約の締結に至ったとも言われています。アメリカ側の記録『ペリー艦隊日本遠征記』によれば、両名の様子が次のように描がかれています。

林復斎「55歳くらいで、立派な風采をそなえ、やさしげな容貌ときわめて丁重な物腰とは裏腹に、顔の表情は重々しく、むしろむっつりしていた。」

井戸対馬守「およそ50歳くらいの、太った背の高い人物だった。彼は年長者の林にくらべれば、多少は快活な表情をしていた。」と。こういった人物評が残っているのは面白いです。ちなみに、林復斎またの名を林韑(あきら)は大学頭という役職にあり、現在の二重橋駅前岸本ビルディングの位置に邸宅を構えておりました。

場所は戻って、鉄鋼ビルディングの裏側、シャングリラホテルのあたりは、秋元但馬守志朝氏(上野館林藩)、松平伊豆守信古氏(三河吉田藩)の上屋敷が待ち構えています。大丸が建つのは、松平丹波守光則氏(信濃松本藩)の御屋敷が建っていた位置ほどです。松平光則は、松平(戸田)家の家系です。初代松平康長は家康・秀忠・家光の3代に厚い信任を受けたこともあり、代々源姓松平氏と三つ葉葵を下賜されてきました。最終的には、明治維新を経て、源姓松平氏・三つ葉葵紋を返上し、藤原姓戸田氏に復するのですが、この辺の激動も近くご紹介できたらと思います。

↑歌川広重の名所江戸百景「八つ見のはし」です。ここからちょうど対角線に望む御屋敷が秋元但馬守志朝氏(上野館林藩)の上屋敷、この絵の左の方、絵画外に呉服橋や、今の大丸が建つ以前の風景が広がっていることになります。

↑八つ見の橋は、一石橋の別称になります。この一石橋から、堀内を眺めたのが広重のこの作品ということになりますね。

歴史の勉強は御しまいにして、今日のランチです。大丸東京店12階のブラッスリーポールボキューズ大丸東京です。入口は、店内のガラス窓から差し込む日差しが心地よいエントランスです。赤と白を基調とした、ポップでモダンなデザイン。昼は明るく開放感があり、夜はガラス一面に夜景が映り落ち着いた雰囲気になるそうです。

今日はランチに来ましたので、採光性の高い窓際で晴れやかな食事ができました。食事はこのような感じでした(一部のみ)。両親にもとても満足していただけました。

↑魚料理から鳴門渦潮天然真鯛のポワレ 旬の野菜 ブールブランソース

↑肉料理から、フランス産「ブルターニュの風」豚肩ロースのロティ インカのめざめ 赤ワインソース

↑食後の珈琲と、ムッシュポールボキューズのクリームブリュレ

それではまた次のお散歩で!