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江戸今昔物語(Tokyo Now and Then)

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天香国色、牡丹華さく。

Then(1909)

Now(2023)

ゴールデンウィーク中に、上野東照宮を参拝いたしました。写真は、大石鳥居です。家康がこの世を去った後、1633年(寛永10年)に酒井忠世が家康公を讃えて奉納しました。石材には備前の御影石が使用されております。左柱に、寛永十年四月十七日厩橋侍従酒井雅楽頭源朝臣忠世」の寄進銘及び修造銘。右柱には、「得鉅石於備前迎 南海運干当山」と刻まれています。この巨大な鳥居は、建てられた後、およそ50年にわたり安らかに佇んでいました。然しながら、天和時代(1681年~1684年)のある時点で、一度、鳥居は解体され埋められてしまったそうです。観光庁の解説によると、理由不明ながら、江戸時代には同様の事件は珍しくなく、社会的地位の高い一族であっても、一旦支持を落とすと、当人たちのモニュメントが撤去されることがしばしば起こり、これもその要因ではないかと言われています。一時的に撤去されたにせよ、1734年に、酒井忠世の子孫である酒井忠朝(1710年~1772年)によって掘り起こされ、元の場所に立て直されたようです。鳥居の根本は最大で地下4mの深さに埋まっているからなのか、鳥居は1734年以降も、東京を襲った自然災害や人為災害の全てに耐えてきました。取り分け、1923年に起きたマグニチュード7.9の関東大震災の折にも少しも傾かなかったほど、堅牢だったことは当時も大変驚かれたそうです。現在は、国指定重要文化財となっています。

ぼたん苑入口

さて、上野東照宮には、何度かお参りに来たことがあるのですが、今回のお目当ては「春のぼたん祭」でした。

ぼたん苑は、上野東照宮の敷地内に、1980年4月、日中友好を記念し開苑。回遊形式の日本庭園に植栽された牡丹は現在、中国牡丹、アメリカ品種、フランス品種を含め、春は110品種500株ほどあるそうです。牡丹には二期咲き(早春と初冬)の性質を持つ品種があり、このうち冬咲きのものが寒牡丹と呼ばれ、冬は40品種160株が栽培されているようです。「春のぼたん祭」は、毎年4月中旬~5月上旬。冬ぼたんは、1月1日~2月中旬頃まで開催されています。

牡丹を調べていたら収拾つかず、本稿では、牡丹シリーズのブログの1本目とします。

見事に咲き誇る牡丹

毎年、5月1日は、二十四節季では「穀雨」の末候、七十二候では『牡丹華(ぼたんはなさく)』の始期で、絢爛豪華、牡丹が映え映えしく咲き始める頃。

牡丹は、牡丹科の落葉低木で中国西北部が原産地。かの玄宗皇帝(唐の第9代皇帝)は、寵愛した楊貴妃と共に牡丹の花見を催し、李白に楊貴妃の為に詩を作らせました。李白が即興で作ったとされる「清平調詩三首」という詩は、楊貴妃の美貌を牡丹の花に見事に重ね合わせて表現しています。

清平調詞(其の一) 
雲には衣裳を想い 花には容を想う
春風檻を払うて 露華濃やかなり
若し 群玉山頭に 見るに非ずんば
会ず 瑶台月下に 向かって逢わん

清平調詞(其の二) 
一枝の濃艶 露香を凝らす
雲雨巫山 枉げて断腸
借問す漢宮 誰か似るを得ん
可憐の飛燕 新粧に倚る

清平調詞(其の三) 
名花傾国 両つながら相歓ぶ
常に 君王の笑いを帯びて 看るを得たり
解釈す 春風 無限の恨み
沈香亭北 欄干に椅る

訳は以下の通り。公益社団法人 関西吟詩文化協会から拝借させて頂きました。

(其の一)この美しい五色の雲を見ると楊貴妃の衣装が思われ、牡丹の花を見ては美人のあでやかな容色が連想される。いま春風が沈香亭の欄干を吹き渡る中、光る露はこまやかにしっとりと輝いている。  このような美人は、西王母の住む群玉山のほとりでもお目にかかるのでなければ、きっと月光の降り注ぐ玉でつくられた宮殿で巡り合う人なのだろう(宮殿でしかお逢いできないでしょう)。

(其の二)一枝のなまめかしい牡丹の花に露がしっとりとおり、芳香を凝結して散らせないようにしているようだ。(夢の中で)「朝には雲となり暮れには雨となる」と契った巫山の女神の姿が夢から覚めた時に見当たらなければ襄王は断腸の思いをすることであろう(それにひきかえ、今、ともに牡丹を観賞している女神・楊貴妃は夢ではなく現実である)。ちょっとおたずねするが、漢の成帝が置いたという美人ぞろいの後宮にあって誰が楊貴妃と比較できましょうか。それは可愛らしい趙飛燕が新たに化粧したばかりの美しさを頼みにし、誇らかにしている姿こそまず比べられるでしょう。

(其の三)名花牡丹と傾国の美人楊貴妃の両方の美しさにご満悦の様子で、そのありさまを皇帝は、笑顔でいつまでも眺めている。皇帝の寵愛を得て、楊貴妃は春風の限りない愁いを解きほぐして、沈香亭の北の欄干によって花を賞でている。

天衣
貴婦人

唐代中期の漢詩人 白楽天(白居易)も、「牡丹芳」という作品の中で、他に比べようもない牡丹の美しさを丹念に歌い込んでいます。この作品は非常に長いので、ここでの紹介は割愛させて頂きます。

また、牡丹を語る時、「花神」や「富貴花」と、その美称は様々ですが、中でも甘美な四字熟語に「国色天香」があります。文宗皇帝(唐の第17代皇帝)が、内宮で牡丹を観賞している際に、長安で詠まれた牡丹の詩で誰のものが最上かと大臣にご下問になったとき、左右の者が中書の舎人・李正封が詠んだ「天香夜染衣、国色朝酣酒」を挙げました。これは、「天のものかと思うばかりの妙なる香り、国中で第一の美しい色」という趣旨で、文宗皇帝はこれをお聞きになって深く感嘆されたそうです。 このように、中国では、古くから、牡丹に関する幾つかの逸話や伝説がありますが、唐時代の文化を通じて牡丹の「花王」としての位置づけが確立したといえます。

新国色

一方、日本に広まった時期というと、『出雲国風土記』(733 年頃)には意宇付近の山野(現在の安来のあたり)の草木として牡丹らしき花のことが記されているようですが、 現在の牡丹との同一性は担保されていません。一つの有力の説としては、奈良時代に、唐の長安で留学していた空海(弘法大師)が持ち帰ったというものがあります。はじめは薬草として伝来したものの、平安時代に宮廷や寺院で観賞用に栽培されるようになり、「枕草子」「蜻蛉日記」などにも登場しています。やがて、鎌倉時代には庭園などにも植樹されて広がり、江戸時代には本格的な栽培が盛んとなり、多くの品種が作出されるに至ります。日本では、この過程で「深見草」「名取草」「二十日草」など、独自の呼び名も広がりました。

例を挙げるに、枕草子では「殿などのおはしまさで後」の段に牡丹が登場します。

原文「(前略)…参りてみ給へ。あはれなりつる所のさまかな。対の前に植ゑられたりける牡丹などの、をかしきこと。」

和訳「(とにかく)参上して(お住まいを)ご覧なさい。しみじみと心を打つ所の様子ですよ。寝殿造りの対の屋の前に植えられていた牡丹などの、すばらしかったこと。」

枕草子 清少納言

また、「牡丹に唐獅子」といわれるように、百獣の王である獅子と、百花の王である牡丹を配した図柄は、今でも吉祥の組合せとされていますよね。 猛々しい獅子にも弱みはあって、身体に寄生する虫によってその命をも脅かされることがあります。これが所謂「獅子身中の虫」といわれるもので、本来は仏典から来ています。どんなに大きく力のあるものでも、内部の裏切りから身を滅ぼすことにもなりかねない、という意味になります。獅子が唯一怖れる、そんな「獅子身中の虫」を退治してくれるのが牡丹から滴る夜露であるということに由来するようです。牡丹の下は獅子にとっての安息の地であり、両者の組み合わせはまさに無敵を示すのでしょう。

まりも

先述は、文化・芸術的な背景からの牡丹の誕生と、その考察になりますが、薬草としての認知は更に古く、西暦500年ごろ、漢の時代に、中国で成立した『神農本草経』を始めとする文書に薬用された経緯が記されます。その後の隋の時代に至るまで『名医別録』『呉普本草』『本草経集注』などの書物に記載され処方されたようです。また、そこから転じて『花壇綱目』や『花譜』には、鑑賞用として使われた記載があります。花の中では、その美しさが一段と愛でられ、素晴らしい形容から、牡丹を花王と呼んだことは既述の通りですが、次いで芍薬を花の宰相・花相と賞しています。『農薬全書』には「牡丹は是を花王と云う、しかるに花を見るのみならず、根をとり薬種とし、良薬にて多く用ゆるものなり」と記述があります。また、本草綱目(1590年頃)の執筆者である李時珍は、その由来について、「牡丹は色が丹(朱色)なるものが上品であり、子を結ぶが新苗は根から生へる。故にこれを牡丹と名付ける」と述べています。

ちなみに、本草綱目は、初版は稀本で、完本は世界に7点しか残っていませんが、日本には国立国会図書館、東洋文庫、内閣文庫、東北大学狩野文庫と4点も存在するそうです。中身を拝見すると、一部は図鑑のように絵も挿入されますが、400年以上前に描かれたものというのも感慨深いものがあります。

国立国会図書館所蔵 李時珍筆「本草綱目」(1590年頃)

『本草綱目』は斬新な内容でしたので、本家である中国でも重版されましたが、日本でも幾度と版刻・刊行されました。江戸時代に入ると出版が盛んになり、17世紀後半には百科図鑑が現われるほか、園芸や貝集めなど、趣味の分野の刊本も輩出されるようになります。また、『大和本草』など、『本草綱目』に盲従しない著作も登場し始めたそうです。

そのうちの一つが中村惕斎編『訓蒙図彙』です。日本初の百科図鑑と言われ、動植物の図が668点と全図数の45%を占め、当時として写実的に描かれています。

国立国会図書館所蔵 『訓蒙図彙』中村惕斎 寛文6 (1666) 序刊

次に、狩野重賢画『草木写生春秋之巻』です。本書に登場する牡丹は次のようにあり、特徴を捉えた美しい内容になっています。画家狩野重賢の経歴は不明ですが、美濃の加納と関係する人物のようです。本資料には明暦3年~元禄12年(1657~99)にわたって計284品が描かれており、大半は園芸植物となっているようです。

国立国会図書館所蔵『草木写生春秋之巻』狩野重賢画 明暦3 (1657) ~元禄12 (1699)

こちらは、水野元勝著『花壇綱目』です。最初の総合園芸書と言われています。図は無いのですが、刊本は192品を所収し、菊・椿・ツツジなどの品種が挙げられています。

国立国会図書館所蔵 水野元勝著 『花壇綱目』寛文4 (1664) 成

最後に、岩崎潅園による『本草図譜』です。日本で最初の一大植物図譜と呼ばれます。全体の構成は本草綱目の分類に基づいており、岩崎潅園が直接目にした草木を写生し彩色した図に簡潔な解説が付記されています。本書には野生種のみでなく園芸品種の草木も含まれ、約2,000種が掲載されている。驚くべきは、ほとんどが著者の自園で鉢植えされたもので、20余年の歳月を費やし文政11年(1828)に完成したとされる点です。特に絵図彩色が美しいですね。

国立国会図書館所蔵 岩崎潅園『本草図譜』文政11年(1828)

今日は一旦ここまで。 それでは次回のお散歩で!