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江戸今昔物語(Tokyo Now and Then)

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賑やかな江戸の橋では迷ひ子にご注意を。

Then(1856)

Now(2023)

今日は、先日ご紹介した外堀・呉服町の辺り、皇居外堀と日本橋川が分岐する地点に架橋された一石橋からお届けします。江戸期を通じて神田地区と日本橋地区を結ぶ重要な橋です。江戸後期、この橋から江戸城本丸方向を描いたのが、歌川広重「八つ見のはし」です。浮世絵の中で、奥に2本の橋が架けられていますが、奥側から道三橋、銭瓶橋が見られます。右上から流れる柳の緑も美しいですが、個人的にはこの深い藍のような青色に惹かれます。さて現在の写真になると、もう御堀の石垣も見られず、建物で視界は遮られてしまい、少し寂しいです…。

一石橋の歴史は深く、江戸初期の「武州豊島郡江戸庄図」にすでに西河岸町と北鞘町とを結ぶ木橋として、画面中央程に見えています。

↑国立国会図書館所蔵「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図」1632年(寛永9年)

今では、外されてしまっている橋も多いですが、江戸時代にはこの一石橋を含めた八つの橋が望めたことから、「八つ見の橋」とも呼ばれています。具体的には、一石橋の他、日本橋川に架かる日本橋と江戸橋が、西側には道三堀に架かる銭瓶橋と道三橋が、南側の外堀には鍛冶橋と呉服橋が、北側には常盤橋となっています。

↑国立国会図書館所蔵「江戸名所図会 7巻」(松濤軒斎藤長秋 著, 長谷川雪旦 画, 1834-1836)

また、一石橋の面白いところは、その名前の由来の洒落です。北橋詰近くの本両替町に幕府金座(現在の日本銀行のあたり)御用の後藤庄三郎光次、南橋詰近くの呉服町には、幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって、当時の単位である五斗(ごと)と称し、後藤(五斗)ともう一方の後藤(五斗)を足して、一石と洒落て名付けたようです。この洒落た由来を紹介しているのは「江戸砂子」であるとの文献があり、実際にこれを覗くと以下です。

↑早稲田大学図書館所蔵「江戸砂子 巻之1-6」

正直、この文体を読み解く能力を持ち合わせないのですが、右頁後段2行ほどがその記載になっていると推察しています。

「五斗五斗といふ秀句にて、俗に一石橋と号けしとなり。」

然しながら、これは単なる俗説だったのでしょうね。浄土真宗廓然寺第四代住職大浄であった、釈敬順が江戸から関東一帯を見聞録として著した『十方庵遊歴雑記』では、洒落の説を否定し、幕府による通用禁止銭(永楽通宝)の回収に際し、この橋に米俵を積み置いて永楽銭一貫文の持参者に対して玄米一石と交換したことを由来として説いています。

↑国立国会図書館所蔵 「十方庵遊歴雑記江戸雀」(釈敬順 著)

また、この辺りは、人の往来が激しく、迷子が多かったことから、橋の南詰めには1857年(安政4年)に迷子告知板が設置され、今でも「満(ま)よひ子の志(し)るべ」と記された碑が残されています。迷子石の右側には、「志らする方」、左側には「たづぬる方」とあり、迷子になった子供の年格好、特徴を記載した紙を貼ったそうです。

↑正面
↑右側「志らする方」
↑左側「たづぬる方」

余談ですが、「不」のような三脚のような記号が何かご存じでしょうか。これは「几号水準点」といい、明治初期に大規模に行われた水準測量(高度の測量)の際のマークです。内務省地理寮は、英国人測量技師の指導で測量を行ったので、英国で使用されていたこの記号が使用されています。後に陸軍参謀本部が標石を導入するまで、灯篭や鳥居、橋といった堅牢な構造物に刻まれていくことになります。特に東京で見られており、桜田門、湯島神社、南青山、芝公園などにもあるようです。ちなみに、1891年(明治24年)、国会前庭に作られた日本水準原点が、国内の標高の基準となっています。

木橋としての最後の架け替えは、1873年(明治6年)で、橋長十四間、橋幅三間の木橋としています。

↑日本銀行(左)、東京火災保険会社(右)へ向かう橋が一石橋(1896年)。
赤枠にあるのが、当時の迷子石。

斯うして江戸時代から明治期まで改架を繰り返してきた一石橋は、1922年(大正11年)に、東京市道路局によって、木造橋から鉄筋コンクリート造、花崗岩張りの近代的で堂々とした親柱四基をすえた白亜の橋 (橋長約43m・幅員約27m)となりました。その後の関東大震災にも落橋せず、これまで交通上の重要な橋として使われてきました。1997年(平成9年)には1922年の橋本体は全て撤去されましたが、威風堂々とした花崗岩の親柱一基は残されています。

↑中央区教育委員会所蔵(昭和初期頃の橋)
↑現在

それでは次回のお散歩で!